占領から免れた石垣島

 

石垣島には太平洋戦争の傷跡はほとんど残っていない。時は流れたが選挙のたびに戦争の傷跡と思える素朴な反日感情が顔を出す。争いに無縁な島民にとって尖閣諸島の賛否が割れるのもうなづける。太平洋戦争末期、石垣島には8000人の日本兵が駐留していた。兵士の食糧確保のため農作物は強制的に拠出させられたうえ、肥沃な農地は強制収用され3つの飛行場が建設された。島民は日本軍の暴力と飢えに苦しめられた話は今も残っている。日本軍の敗色濃厚な頃、石垣島はイギリス軍が上陸し占領進駐予定だったが、イギリス艦隊の基艦空母は特攻機の攻撃を受け甲板を大きく損傷した。戦力を失ったイギリス軍は石垣上陸を断念した。平成の時代、尖閣諸島の所有権を持つ石垣島の中山市長は抑止力に近距離ミサイルの配備を国に求めているが、島民の大半は自衛隊のミサイル部隊駐屯に反対している。

尖閣諸島

 

尖閣諸島については、1992年中国が自国の領土と宣言して以来、中国漁船の違法操業が増えている。2010年9月7日には中国漁船が巡視船よなくに、巡視船みずきに意図的に衝突し破損させる事件が起きた。この事件を機に多くの方がいろいろな思いを込めて尖閣諸島を守る活動を進めている。石垣の小型漁船にとって尖閣は漁場としては素晴らしいが、いささか遠い島、行き難い島の印象が強い。台湾や中国の漁船は中型船が主で居座って操業する。日本の船舶規格規制によると20トン以上の中型船は機関長を必要とするため、やむを得ず機関長のいらない19トン以下の小型船となる。小型漁船では台湾の中型漁船に太刀打ちできないため、行きたくとも気が重いのが尖閣漁場のようである。漁船の規格制限という思いがけないところに尖閣諸島に疎遠になった理由があるようだ。

私も機関長のいらない中古の19トン、75フィートのいそかぜを購入した。いそかぜには操船し易いよう2階ブリッジを増設し、約1年間、難所として有名な竹富島南航路での操船訓練を重ねた。

竹島南航路は離島の物流確保のため、その一部黄色い部分はサンゴ礁を人工的に切り開いた幅わずか70m、深さ4mの海道である。この狭いところを高速で向かってくる離島連絡船とすれ違う時はかなりのスリルだ。まだ操船に不慣れな頃、左に寄りすぎてスクリューとシャフトを破損し修理代に泣いた苦い思い出がある。

巡視艇みずき

 

インターンの頃、巡視船のじまにシップドクターとして定点観測に従事したことがある。ゆかりのある海上保安庁の石垣保安部に健康講話などに伺っている。縁あってみずきの船長と知り合った。みずきはかつて奄美沖で北朝鮮不審船を銃撃したことで名をはせた。一度標的をロックしてしまうと外すことはないというその機関砲の前での記念撮影。国境の海を守っている海上保安官達、微力だが彼らの健康の支えになりたいと思っている。

老老介護の心の闇

 

石垣島には今もトーカチ祝いが残っている。男子は数え年88歳で米寿トーカチを祝う。数え90歳傘寿を迎えた妻は米寿を迎えた夫と共にトーカチを祝った。トーカチとは一斗升にに米を盛って升の上を平らにする丸い棒のことである。トーカチは本来沖縄の言葉で南九州から次第に西日本に広がり、私の実家ではトーカチ棒のことをトマス棒と呼んでいた。宴たけなわの最中、寡黙な夫はより寡黙になり、酒を注いで回る妻は多弁で嬉しげであった。私は対照的な夫婦に幾ばくかの違和感を感じていた。この違和感はしばらく頭から離れなかった。時は経ち、山に住む老夫婦のことは忘れかけてていた。そんなある日、山の爺さんの調子が悪そうなとの話が耳に入ってきた。息子に様子を見に山に行かせたところ、爺さんはろくに食べさせてもらっていないようだと不安げであった。卒寿を迎えた老妻は自分の元気な間に多少認知のかかった夫を先に逝かせたいと願ったのであろうか、、!?。過疎の村に取り残された老夫婦の心の中まではわからない。私は高速を降りくねくねと曲がった細い山道を迷いながら日が暮れてやっとたどり着いた。ぽつりと灯りの付いた一軒家はこの世離れし不気味であった。出迎えてくれた婆さんへの挨拶もそこそこに、奥部屋の爺さんを見舞った。すでにかなり衰弱していた。枕もとには診療所の薬袋がそのまま置かれていた。日当たりの悪い奥部屋の中はすえたかび臭さと便臭が漂っていた。眼窩は落ちくぼみ、布団から出た腕は細く棒のようであった。私は脈と血圧を測った。肺音を聴こうと当てた聴診器からは浮き出た肋骨にこすれる雑音とヒューヒュー、ゼロゼロした呼吸音が聴こえた。酸素飽和度は88しかなかった。すでに生きるしかばねだった爺さんは間もなく息を引き取った。村の診療所の診断書は老衰であった。通夜に来た大学教授をしている息子、霞が関で役人をしている娘婿は爺さんが先に逝って良かったと喜んでいた。私たちは明日の朝の一番で帰るので葬儀も四十九日も来れないからよろしく頼むであった。父の死を悲しむ風情はさらさらなく、死因について疑うなど論外のようであった。その後元気だった婆さんも大腿骨頚部骨折を起こし、私が引き取ることとなった。痛い痛いと言いながらも口は達者で、あんたは一人もんだし好きなことをしてきたんだから今からどうやって死ぬんかよぅ考えんさいと嫌味たっぷりの訓示を受けた。婆さんは満100歳の誕生日を市長さんからの金杯、ディケアスタッフと孫たちからの花で祝ってもらった。数え102歳で眠るように天寿を全うした。

90歳に近い老夫婦に潜む殺意は珍しい話ではない。殺意は愛の風化なのか憎しみの増燃なのか、それとも単なる断捨離なのか、老夫婦の心の中は未知なる世界である。

 

 

石垣島ヘリの旅

出発:福山から宮崎 350km

2011年7月11日(月)R44水上機型ヘリコプターJ×××にて教官と訓練生大田の2名で、早朝6時福山市水呑町竹ヶ端を出発した。朝薄曇り、のち晴天、気温27℃、風速6mのち8m

離陸後は、ほとんど私が操縦、教官は地図、書類、計器などのチェックに忙しく、かなり緊張の様子

高度1500フィートにて西南に進路を取る。松山空港南を通過、右手に伊方原発、いつも原発北側の洋上にいる巡視船の姿は見えない。大地に根を張ったようにたくましく林立する風力発電塔を眼下に見ながら、佐田岬半島を通過、この間、山脈の上昇気流の影響でヘリは上下左右に大きく揺れた。洋上に出ると途端に揺れが収まり九州の東海岸に到着した。何度見ても美しい日向灘を南下する、緊張しながら自衛隊訓練空域を無事回避通過する、さらに南下し、シーガイア上空を通過、美しいゴルフ場に人影が点在する、管制塔の指示により宮崎空港ライン着陸の順番を待つため約10分間高度500フィートでフォールディング。

 8時17分管制官の許可がおり、宮崎空港に着陸、8時20分エンジン停止、空港でアブガス満タンまで給油。9時7分エンジンを掛け、ナビをセット、9時14分種子島に向け宮崎空港を離陸した。お役所仕事へのお付き合いは大変、単なる給油だけに約1時間を要してしまった。

福山市竹ヶ端 いざ出発

宮崎上空 シーガイアを臨む

宮崎から奄美 524km

 高度1500フィートで順調に南下する、飛べども、飛べども大隅半島が見える、なかなか九州から離脱できない、九州は意外と大きな島と実感した。やっと佐多岬の先端が見えてきた、九州はここで終わりだ。

さらに南下すると左前方に種子島を確認。種子島北端から南端まで約30マイル飛行、12時07分、屋久島が右前方に見えてきた、強い向かい風をうけ予想以上に燃料を消費している。安全のため給油が必要と判断、屋久島防波堤に降りた。着陸し雄大な眺めを満喫、一休みした後、手持ちの給油缶からアブガスを入れる。空からみた防波堤はちっぽけなものだが、降りてみると意外に広く、セスナ機なら緊急着陸可能と思うぐらい立派な防波堤、なんでここに必要なの、妙なところで国の力を実感した。目の前が屋久島、前方に奄美大島が見える。晴天で波も穏やか。

 

 屋久島防波堤を離陸し何事もなく順調に飛行、12時15分奄美空港に着陸。ここで再び満タンまで給油。空になった携帯燃料缶へは管制塔から見えないように給油してもらった。お役所仕事はどこも同じ。やはり給油に1時間を要した。

 

 

種子島

屋久島 防波堤にて

 

奄美から沖縄本島 407km 

 13時15分奄美空港を離陸した。天候も良く楽勝かなと話している最中、左方向から前方に大きな雷雲が行く手を阻むように立ちはだかる。雲の下の海面は霞んで全く見えず、この巨大な雨雲につかまると、視界はゼロとなり相当に危険。果たして逃げ切れるか、大きく右旋回し、全速で逃げる!見る見る黒雲が近づくが、ヘリの風防ガラスに雨粒を被るだけで無事逃げ切った!

その後、多少の雨を被るが視界良好にて前方に徳之島を確認。

徳之島上空を通過、14時22分沖伊良部島の上を海岸線に沿って南下。前方に与論島の島々が見える。14時39分与論島上空を通過。沖縄本島の北端が見える。まずは一安心。

 

 沖縄本島東海岸を南下中、かの有名な辺野古上空を旋回する、戦略要衝の地、なるほどと思う所があった。管制官と頻回なやりとり、視界に旋回中の待機飛行機が見える、意外なことにあまり待たされることなく15時30分那覇空港海上保安庁格納庫前A1スポットに着陸した。国際空港にしては異例の厚遇かも。那覇空港でも満タンになるまで給油。

那覇から石垣島 411km 

那覇でも手続きに時間を要し、1時間を費やした。16時29分那覇空港を離陸、小さな島らしい影(島の名前は不明)を右手に見ながら、南西に進路をとり350フィートの低空で波を楽しみながら飛んだ。問題は宮古島。那覇から宮古島まで220km那覇から西は教官にとって未知の空域。

 

 次第に風が強くなり、海面は白波が増え、ヘリのスピードが大幅にダウン、なんとしても日没までに石垣島に着かなければならない。焦る気持ちを乗せて1時間半以上飛行したころ、思ったよりも右方向に宮古島が見えてきた。宮古島空港に着陸する時間的余裕はない。海岸に着陸を試みるがローターの風で砂が巻き上がり無理と判断、垂直の断崖を上昇すると、突如ゴルフ場の広い駐車場が見えた。車は一台もなく二度旋回し18時過ぎ思い切って着陸した。

 急いで手持ちの給油缶からアブガスを給油、夕暮れが近づいており宮古島空港と連絡、事情を説明しながら石垣島に向け離陸、那覇管制官より宮古島空港に着陸しない理由についてクレーム無線が入る。石垣まで無給油で飛ぶリスクを懸念されたのかもしれない。

 最終目的地、雲に覆われた薄暗い石垣島が視界に入ってきた。近づくにつれ天候が悪化、石垣空港、赤石方向ともに雨雲、島全体が雲に包まれた怪しげな雰囲気、気持ちが焦る中、突如伊原間の雲が切れて太陽が顔を出した。私たちの石垣島到着を祝福してくれているかのような美しい夕陽だった。川平ベイに向けて飛行。左旋回しヒュッタビーチを目指す。300フィート上空はまだ明るいが降下するにつれて夕闇が近づき、やっとヒュッタの赤瓦の我が家を目視できたときはほっとした。那覇管制官より国立公園への着陸はできないとの連絡が度々入る。洋上着水の連絡をとり、一旦着水、高度10m以下は飛行と見なされないホバリングにより合法的にヒュッタ海岸私有地に着陸した。

 石垣島ヒュッタ海岸着陸は19時23分、日没は19時35分、日没12分前ギリギリの到着であった。

沖縄本島 首里城上空

辺野古 偵察飛行

那覇から石垣島 411km 

那覇でも手続きに時間を要し、1時間を費やした。16時29分那覇空港を離陸、小さな島らしい影(島の名前は不明)を右手に見ながら、南西に進路をとり350フィートの低空で波を楽しみながら飛んだ。問題は宮古島。那覇から宮古島まで220km那覇から西は教官にとって未知の空域。

 

次第に風が強くなり、海面は白波が増え、ヘリのスピードが大幅にダウン、なんとしても日没までに石垣島に着かなければならない。焦る気持ちを乗せて1時間半以上飛行したころ、思ったよりも右方向に宮古島が見えてきた。宮古島空港に着陸する時間的余裕はない。海岸に着陸を試みるがローターの風で砂が巻き上がり無理と判断、垂直の断崖を上昇すると、突如ゴルフ場の広い駐車場が見えた。車は一台もなく二度旋回し18時過ぎ思い切って着陸した。

 

 

無人のゴルフ場

急いで手持ちの給油缶からアブガスを給油、夕暮れが近づいており宮古島空港と連絡、事情を説明しながら石垣島に向け離陸、那覇管制官より宮古島空港に着陸しない理由についてクレーム無線が入る。石垣まで無給油で飛ぶリスクを懸念されたのかもしれない。

突如姿を見せた石垣島伊原間に沈む太陽

 

最終目的地、雲に覆われた薄暗い石垣島が視界に入ってきた。近づくにつれ天候が悪化、石垣空港、赤石方向ともに雨雲、島全体が雲に包まれた怪しげな雰囲気、気持ちが焦る中、突如伊原間の雲が切れて太陽が顔を出した。私たちの石垣島到着を祝福してくれているかのような美しい夕陽だった。川平ベイに向けて飛行。左旋回しヒュッタビーチを目指す。300フィート上空はまだ明るいが降下するにつれて夕闇が近づき、やっとヒュッタの赤瓦の我が家を目視できたときはほっとした。那覇管制官より国立公園への着陸はできないとの連絡が度々入る。洋上着水の連絡をとり、一旦着水、高度10m以下は飛行と見なされないホバリングにより合法的にヒュッタ海岸私有地に着陸した。

 石垣島ヒュッタ海岸着陸は19時23分、日没は19時35分、日没12分前ギリギリの到着であった。